長野県飯田市にて当時4歳だった私が、7歳の兄がピアノを習っていたので自分もやりたいと始めた。(兄は友達にバカにされてやめてしまった。)
はじめは、ヤマハのグループレッスンへ。
音符の磁石、出席シールを貼るのにワクワクしながらレッスンに通っていた。
長野市に5歳のときに引っ越す。長野市内のヤマハに転入。
自宅が山の中にあり、車で1時間かかる道のりを1年間頑張って通ったが、車が事故にあったことが引き金となり、もうこんな遠いところやめようと6歳の時に一度やめる。
すぐに車で10分くらいの個人の先生の教室に変わる。赤バイエルから個人ピアノがはじまる。先生が伴奏して自分が弾くことがとても心地よかった。
順調にピアノは上達していく。 3年生の当時の日記に「5年生の先輩が『すごい、私より進んでいる』と言ってくれて気持ち良かった」 と書かれてあったのを見ると、なかなか上手だったらしい。 3年生でブルクミュラーに入る。
長野のレッスンは、今のように決められた曜日と時間にレッスンを受けるというものではなく、ある曜日にだったら、何時に来ても良かった。
生徒たちは来た順番に待機。 順にレッスンを受けるというもの。
きっちり30分レッスンを受けていたかも定かではなく、みんな漫画を読んで待つというなんとものんびりしたレッスンだった。
問題は私が、こういうレッスンが一般的だったと なんと大人になるまで信じていたこと。
自分の子供をピアノ教室に通わせた時に、愕然してカルチャーショックを受けたのを覚えている。「今の時代はこうなんだ』 と、変に納得したのを覚えている。
当時の長野レッスンは、自由なレッスンだったが故に 他の生徒の演奏も聴けて、それはそれで良かった。 あんな風に弾きたい・・・そんな目標も芽生えた。
1学年1学級30人という少人数のクラスの中、ピアノを習っている子はいたが、合唱伴奏は私を含め3人の友達でローテーションしていた。
山本直純『夕日が背中を押してくる』 の合唱曲の伴奏を受け持つ。
とても難しかったらしく、当時の日記に 『山本直純のバカ!』と書かれてあり、さらに担任の先生になだめられ…と 今思えば、バチ当たりである・・・
素直、真面目、外で遊ぶのが大好きな子だった。おかげで生傷が絶えなかった。
6年生の時に、地元の有線放送で自分の演奏が流れたこともあった。練習と言うよりも弾くことが楽しく毎日30分~1時間は弾いていた。暇さえあればもっと弾いていた。
中学時代 中学校は6つの小学校が統合、1学年8クラスもあるマンモス中学校だった。田舎育ち、世間知らずの自分。 クラスの中でもっと弾ける子が2人もいて、とうとう一度も伴奏のチャンスがもらえなかった。 それまですごく楽しくピアノを弾いていたのに、暗転、落ち込んでやる気を失ってしまった。
いつも伴奏をしている友達から歌のテストの際に、伴奏をしてくれないかといきなり頼まれた。彼女は私の有線を聞いていたこともあり、私を信頼して言ってくれたのだろうけれど、いきなり弾いても弾けるはずがなくボロボロ。地獄に落ちた気分だった。みるみる練習の意欲がさがり、ほぼ練習しないでレッスンに通う日々が続いた。
先生に怒られたことはなかったが、さすがに先生に対しては申し訳ない気持ちになり 『すみません。練習して来ませんでした。』 と謝り、その場で練習させてもらった。
部活は、吹奏楽に入りたかったが 先に吹奏楽をやっていた兄が 1月1日以外、年中無休状態だったのを親が見かねて『おまえは入るな』と反対された。
一緒に入ろうと約束した友達にも顔向けができず 絶交状態になり、落ち込んだ。仕方なく、剣道部に入った。でも、それはそれで楽しかった・・・
信号がない。 車は通れるも、すれ違いは微妙… そんな状態だったので 友達からは『山』とあだ名をつけられ、バカにされていた。 最初は、ショックだったがだんだんと慣れて 笑ってごまかしていた。 でも自分の住んでいる山は、本当に景色がきれいで 水は美味しいし、自慢の家だった。
当時通学区7校の中で一番良い高校に受かる。屋代高校に通う。
行きは下りなので10分で行けたが、そこから電車で15分。
帰りは上りなので自転車をこぐも途中で疲れてしまい、押していくので30〜40分かかった。
入学してすぐに、ギター、マンドリン部に見学に行く。 マンドラという楽器の音に聞き惚れてしまい即入部。
週6日、夢中で部活に参加した。 ピアノにも気持ちが復活した。
高校2年の時に、生物を専攻したくて目指す。 前向きな動機では、動物の生態を学びたかった。 裏動機は、苦手な英語の試験科目がなかったから・・・
英語は、洋楽を聴くのは好きだったが、文法が壊滅状態・・・ 成績も共通一次はマークシートだったからなんとかなったが、2次試験の記入式は無理で諦めた。
地元のピアノの先生からは、信州大学の教育学部の音楽科はどうかと言われたが、当時は自分が先生になるなんて、不安しか感じられずに断念した。
国立の帯広畜産大学畜産学部に合格。一人暮らしを始める。
バラ色の人生だった! 山の中で暮らしていた自分にとって北海道のどこまでも続く地平線は、心が解放された。空が大きく見えた。
大学に入ってすぐに車の免許をとった。中古の車だったが、乗り回していた。道がひたすらまっすぐで普通にみんな速度規制ギリギリ走行・・・爽快だった。
部活もマンドリン部があったので入部。部活の友達と寝食を共にするくらい仲良しになった。
残念ながらピアノとはいったん離れてしまったが、学校に貸しピアノ練習室があったので時々弾いていた。
研究室では動物の生態、特にエゾライチョウをはじめとする鳥類の研究をしていた。
楽しかった北海道生活も終止符がいよいよ終止符が。北海道の大学に行く条件の一つが、卒業したら長野で就職することだった。
就職は、全然畑違いのIT会社へ就職。同期が多く、人間関係は楽しかった。
が、 バブルの頃だったので就職は楽だったが、それが裏目に出て、中に入ってからが大変。
全くわからないITの業務に、夜10時過ぎまで会社に残るという反転地獄が待っていた。
でも素敵な出会いがあり、職場結婚。25歳 妊娠を機に退社。 長女、長男、次女の3人のママになる。千曲市で一戸建てを買う。 しばらく専業主婦が続くが 長男が4歳の時に、パートに出る。
まずは長女が3歳の時にヤマハに通うため、ピアノを実家から持ってくる。
自分は専業主婦だったこともあり、遊びでピアノを弾いていた。
長女が年長になった時に、保育園のクリスマス会で、保護者が歌をプレゼント。伴奏者が必要になった。
やりたい気持ちと周りに誰も弾ける人がいなかったこともあり、勇気を出してチャレンジ。約一ヶ月の練習を経て、本番も大成功。
自分では小学校以来の伴奏をやり遂げ、達成感を感じた。周りの人からもすごいねって言ってもらえ嬉しかった。
長女の友達のお母さんから、その時の私の伴奏を見て下の子を習わせてもらえないかと依頼が。 私の初めての生徒さんになる。5歳の男の子。小さい子用の楽譜を見つけてきて教え始める。
5歳の男の子、なかなか集中力もなく、楽譜もただはじめからなぞって教えるだけ。 これでは、楽しいレッスンとは言えないのでは?そんな葛藤が始まる。 自分のキャリア不足を感じ、ヤマハのグレートを取ることを決意。38歳だった。
ヤマハの教室に通い始め、指導グレード5級を1年で取る。 私より若いフルートの先生が、伴奏者を探しており、そのご縁から 年2回の楽器店の発表会にフルート伴奏者として出ることになる。 一回の発表会で、5~6曲でるようになり、演奏力がどんどん上がっていった。
グランドピアノも迎え入れ 2010年、初めての発表会を自宅でクリスマスコンサートと称して開催した。 生徒さん6名のこじんまりとしたものだった。
フルートの伴奏は難曲も多く、自分では大特訓だった。多い日は1日2〜3時間練習。 下の子が保育園に行っていたこともあり、練習時間なども工夫。 この頃にはピアノ教室の生徒も15~6人に増えていた。
2011年、電撃的な出会いがある。
調律師さん情報で、長野県のピアノの先生の集まりがあることを知る。
教室を始めて3年、 ただ楽譜を進めて行くだけのレッスンに疑問を感じ始めていた自分も、もっと楽しくレッスンしたい!ここに行けば何か良い情報が得られるのでは?そんな期待を込めて出かけた。
ペースメソッドを広めようと講師の先生方がちょうどきていた。幼児の向けの教材を使って、自分たちが生徒になりきって 模擬レッスンをした。 自分も生徒役として参加。
目からウロコが落ちた!長野のペースメソッド研究会が発足され、入会。月に一度、ペースメソッドを進める勉強会に参加するようになる。
ペースメソッドは基本グループレッスン。
自分がグループレッスンをするなんて思いもよらなかったが、いざ生徒にさせてみると
県内でも珍しいグループレッスンのできる教室として注目されている。グループは、6グループ(2017年現在)小学校2年生グループから小学校6年生グループ。個人レッスンも行っており、年少~大人までの生徒さんが所属。